「我思うゆえに我あり」という言葉は、誰が言ったかは知らないけど何となく知っている人も多いのではないでしょうか。
- 読めるけど何を言っているのかまでは分からない
- 言わんとしていることは何となく分かる
- 人に説明するのは難しい
といった印象を受けている人も少なくないと思います。
そこで本記事では「我思う故に我あり」を当ブログ流に紐解いていきたいと思います。
(ただし、考える楽しみを置いておくために答えまでは断言しません)
我思う故に我ありって結局なに?なぜ私が在ることは疑えないの?
※以下は、よく見られる相談内容を再構成した例です。
『I think therefore I am』はどういう意味で、なぜそれほど重要だと言われるのか。
5歳児にも分かるレベルで説明してほしい。
哲学者デカルトの有名な言葉「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」について質問です。
彼は、これまでの哲学者が前提としていた「太陽が見えるから、それは存在する」といった感覚的な確信をすべて否定したと聞きました。「実はすべて夢なのではないか」「脳が瓶の中に入れられて見せられている幻覚ではないか」と、あらゆるものを疑うところからスタートしたそうです。
しかし、すべてを疑い尽くした結果、彼はなぜ「自分が存在すること」だけは確実だと言えたのでしょうか。「すべてを疑っている自分」という存在がいなければ、そもそも疑うこと自体が不可能である、という理屈がいまいち掴めません。
「自分が何者であるか」は分からなくても、「存在していること」だけは疑いようのない出発点になる、という彼の思考プロセスを詳しく解説していただけないでしょうか。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」に至ったのはなぜなのか、という疑問を取り上げたいと思います。
上記のよくある質問の内容を整理すると、デカルトは、一般的な哲学者の考えである「太陽は、見えることを根拠に存在する」という考え方を否定しました。
そのうえで、「我思う、ゆえに我あり」。
何かを思っている「我」の存在だけは疑えないものであると結論づけました。
ですが、言葉として読めても「我思う、故に我あり(自分という存在がいなければ、疑うこと自体が不可能である)」という考え方の本質まではよく理解できないという質問です。
まずこの問いが生じるのは、自分が肉眼で見ている物体は、自分がいるかどうかに関係なく存在するという前提を信じているからではないでしょうか。
(一般的な哲学者と同じ視点を持っていると考えられる)
普段の見方とデカルトの見方にはズレがあるから分かりにくい
言葉として読めるのに意味が分かりにくいと思う人もいると思います。
そう思う理由は、デカルトが「我思う故に我あり」で示した見方と、私たちが普段当たり前だと思っている見方にズレがあるため、意味がつかみにくいと感じるのではないでしょうか。
一般的な前提として、
- 見る=認識できる=在る
- 物事には初めから意味がついている
が当たり前になっています。
言い換えれば、「太陽という存在が、我々の目にそのシグナルを伝えるから在る」・・・と信じている。
それを根拠にして私たちは「在ると思う」ということです。
対して、デカルトの「我思う故に我あり」という考え方は、逆のことを言っています。
(質問の内容でもその旨が書かれています)
> 彼は、これまでの哲学者が前提としていた「太陽が見えるから、それは存在する」といった感覚的な確信をすべて否定した
「(客観的に実在する)太陽を私が見たからそれは存在する」
という考え方を彼は否定したということです。
「見る以外に認識できなくない?」と思いますが、見るということはどういうことなのか、を本質的に考えると分かってくるところです。
冒頭の疑問への回答として、5歳児でも分かるように言うとしたら
「世界中が嘘つきで、テレビも友達も、今食べているお菓子さえも全部幻かもしれない。でも、そうやって『これって本物かな?』って疑っている君の心は、絶対にニセモノじゃないはずだよね」
というふうに説明できます。
「在るから認識する」のではなく「認識するから在る」への反転
分かりやすく説明してくれる記事は今時、山ほどあると思います。
ですが、哲学系の話は説明されるほど頭が混乱してくることがあります。
それはどういう前提で「我思う故に我あり」という言葉を捉えているか、という読者の前提を崩さずに説明が始まってるところに原因があると思います。
哲学書を好んで読むような人は、おそらくデカルトが言いたいことを分解して理解できる可能性が高いです。
その一方で、一般的な人がいくら丁寧に説明されても理解しにくいのは、見たものすべてに意味がついてるのが当たり前で疑ったことがないからではないかと私は思います。
我思う故に我ありはその逆の考え方をしていて、物事を認識する始まりが目の前に対象が在るか・無いかでは始まってません。
「思う我がまずあって、そこから認識されたものが在る」という考え方をしています。
なぜ「我思う故に我あり」は重要だと言われるのか
我思う故に我ありを簡単に言えば「私が思っているから、私はいることは否定できないんだ!」と言い換えられます。
でもそれって「普通のことじゃない?」と思うケースもあるようです。
確かに言葉だけ見れば当たり前のことをカッコよく言ってるだけのようにも読めます。
評価が高い理由のひとつとして考えられるのは、当たり前以外の視点を知る機会になるからです。
自分が当たり前だと思ってた考え方が、いかにちっぽけだったかを哲学を通して知ってしまうから、重要だと思う人がいるのでしょう。
ただ、私たちは目先のことで忙しいので、哲学的なゴリゴリに理屈っぽい話を聞いても「だからなんやねん」というツッコミをしてしまいがちです。
ですが、人生で行き詰まりを感じたときほどこういう視点の転換が役に立つものです。
一般社会の常識はみんなと同じという安心をもたらす一方で、立場次第で呪縛も生みます。
哲学的な視点というのはそもそもの前提を疑い、土台からひっくり返すための思考法でもあるのです。
常識の盲信は「解釈の権利」を社会に明け渡していること
多くの人が外部からの圧力や束縛感、行き詰まりを感じるのは、自分の価値観や成功の定義を社会・他者(外側の構造)に委ねているからです。
「我思う故に我あり=世界がどうあろうと、世界を疑っている私の存在は疑えない」はデカルトの答えですが、それを当ブログ流に再解釈するとこうなります。
「世界をどう解釈し、存在させるかの決定権は『私』にある」
この宣言が人はできるということだと考えます。
また、格差の底から上がり、呪縛の結び目をほどいて「自立」を目指すために必要な最低限の視点です。
周りに合わせることを良しとする風潮が日本にはありますが、現実の解釈をすべて委ねていては、社会の部品や役割をこなすだけの人生になります。
思考実験ワーク|太陽はそこにあるのか「私の中」にあるのか?
ここで「我思う故に我あり」を分かりやすくするために思考実験的な具体例を出します。
(あくまで思考実験なので事実との差がある場合は目を瞑ってください)
思考実験1:視覚を失ったとき、太陽の「実在」はどう定義されるか
問い:太陽が存在するかどうかについて。
目が見える人は、太陽を目で見てその存在を信じると思います。
では目が見えない人の場合、どのように太陽の存在を確信すると思いますか?その世界では存在しないですか?
冒頭の疑問を引用すると、デカルトは「太陽が見えるから、それは存在する」という確信を否定し、あらゆるものを疑ったということですが、初めから見えない場合は太陽はそこにどう在るのでしょうか?
下は回答ですが、ただ読むだけでは答えに対して「ふーん」と言って終わってしまいます。
自分で考えてから読むことで考え方の比較や思考の質を深めるのに役立ちます。
一般的な観点では、見える人の現実には太陽は視覚的に存在するので、見えなくても太陽は在るとするのが普通の回答だと思います。
デカルト的な視点でこの思考実験を捉えると、目が見えない世界では、視覚的イメージを根拠に太陽が在るというのは成立しないと考えられます。
(しかし、社会は目が見える世界を前提にして動いているので、見える=あるという理屈はあまり疑う必要も意味もないというふうに処理されています)
目が見えない場合に太陽はどうなっているかというと、温かさなどの視覚以外の情報から太陽の概念が形成されると考えられます。
つまり、太陽の存在は「(我が)外気が温かいかどうか疑う」から、それゆえに太陽が在る可能性が高いと考えることができます。
思考実験2:「思う」と「存在する」は本当に繋がっているのか
問い:「思う自分がいること」で、「私が確かに存在する」と本当に言い切っていいのか?
デカルトの「我思う故に我あり」の考え方は、現実のすべてが実在するかどうか疑ったとき、何かを疑っているその存在だけは疑えないという哲学的な結論を示してます。
ですが、「思う自分」と「私という存在」は同一とみなしていいのでしょうか?
同じように考えてから開いてみてください。
基本的には、私たちが何か思考をしている時、その行為をしているのは自分以外にありえないと考えると思います。
その解釈の上で考えるなら、現実のすべてのものが不確実だったとしても、何か疑っている「私」の実在はやっぱり否定できないという結論になります。
仮に「疑う(思い)存在」と「存在する自分」が別だった場合、疑う思考的存在というものをメタ的に見る私が存在する、という見方になるかなと思います。
疑う思考が自分自身でなかったとしても、それを「見ている私の存在」は疑えないのではないでしょうか。
認知力ワーク|デカルト式 疑う力を常識という認知の檻を出る力に変える
デカルトが行った「方法的懐疑(すべてを疑うこと)」とは、確実なものに到達するために、人の偏見・間違った意見・本当っぽいけど不確実なものなど、少しでも疑いの余地があるものを否定していく考え方のことです。
その思考の果てが「我思う故に我あり」でした。
デカルトと同じことを繰り返す必要はありませんが、疑う力は自分が囚われている常識(認知の檻)を破壊する武器になります。
自分の常識が報われない役割や望まない人間関係を招くきっかけになってることも多く、境遇の呪縛を脱することにも繋がります。
常識を疑うこととは、例えば
- 「お金がないと不幸だ」は本当っぽいけど、なら富豪は絶対的幸福者で他は全員不幸なのか?
- 「組織に属さねばならない」と思ってるけど、属さずに生きてる人は何なのか?
- 「周りに迷惑をかけてはいけない」は、人生単位で考えても本当に正しいのか?
といったことです。
自分が疑う余地なく当たり前だと思っていることを洗い出して、できれば紙やアプリのメモ帳に書き出してみてください。
そしてその当たり前を「本当にそうだろうか?」疑い尽くし、自分が納得できる新しい答えを見つけてみてください。
(デカルトの真似をして、ちょっとでも不確かなら一旦その当たり前を否定してみてもいいと思います)
その過程で、常識が何のためにあって、どう機能しているのかを知ることになります。
そのとき、あなたは初めて境遇の呪縛を自分でほどき、認知の仕組みを通じて社会を「利用する側」に回ることができます。
「振り回されっぱなし」の毎日に、終止符を打つために
人は周りの影響から逃れられないため、周りにいる人と似たような人生を送ることになります。
それでもあなたは納得できる人生だと断言できますか?
私はこれまでに人間の行動原理や脳の仕組みの記事を書き続けてきました。
それら記事は全て、『永遠の人生の夏休みの実現』というゴールに繋がっています。
以下は関連記事全体を地図としてまとめたロードマップ記事です。
「自分の人生、どこかしっくりこない」と思っているなら、騙されたと思って一緒に初めの一歩を踏み出してみませんか?
永遠の夏休みな人生に至る法則シリーズの記事では、次の一歩に役立つ「思考のヒント」を散りばめています。
社会不適合界隈の歩き方
普通という基準で動く世界が一般社会界隈だとしたら、普通ではないという基準で動くのが不適合界隈です(詳細はこちら)。
社会不適合な私が、怪しいと思いながらも見つけた推せる箱でもあります。
生き方の選択肢としてそういう世界を知っておいて損はないと思います。
永遠の夏休みな人生を実現するために重要な考え方や技術、ノウハウがある界隈でもあります。
もし人生夏休み化や不適合界隈の価値観が合わないと言うなら、実は本音では「私は普通の人でいたい」ってことかもしれません。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
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