物事は知れば知るほどわからなくなるのか?

人間メタ認知特集
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認知の既知化・空洞化がもたらすパラドックス

ありがちな悩みの例(物事を知るほどに分からないと感じる境界について)

物事って、知れば知るほど逆にわからなくなりませんか?
最初は「なるほど」って思っても、調べれば調べるほど例外とか前提とか出てきて、結局どこまで信じればいいのか分からなくなります。
これって自分の理解が浅いだけなんですかね。
それとも、そもそも人間って完全には分からないようにできてるんでしょうか。
考えすぎなんでしょうか。

知ることと、分かってないと感じることの境界はどこにあるのでしょうか。

「知れば知るほど、自分が何を分かっていないかが浮き彫りになる」という体験は、知的な探求を行う人にとってよくある感覚ではないでしょうか。

何かを学び始めた当初の「分かった!」という全能感は、学びを深めるにつれて「いや自分はまだ何も分かっていない……」という現実に変わっていくことがあります。

この現象の背景には、私たちの脳の仕組みと、認知システムが引き起こすいくつかの「バグ」が存在しています。

「理解」のつもりが「既知化」へ:適応水準と価値の陳腐化

私たちが新しい対象に出会ったとき、脳は強い刺激を受け、その知的好奇心や物事の新鮮さに興奮します。

しかし、対象についてある程度わかってくると、脳はその対象を「理解した」というよりも、単に「知っているもの」として処理するようになります。これを認識の既知化(きちか)と呼びます。

脳の構造は、限られたエネルギーで効率よく生存するために、入ってくる刺激をパターン化して処理するようにできています。
これは心理学における順応の働きによるものです。
一度「既知のもの」として適応してしまうと、脳はその対象に対する感情的な反応(面白さや新鮮さ)を低下させます。

その結果、知識が増えることと引き換えに、最初に感じていた対象の魅力や価値が失われる価値の陳腐化が発生するのです。

知るということは、対象をラベルで固定し、脳内での「新鮮な謎」から「当たり前の既知」へと引きずり下ろすプロセスでもあります。

未知の広がりと自分の限界:無知の知とダニング=クルーガー効果

それでも知的好奇心は止まらず、さらに対象を深く知ろうとすると、今度は「未知の領域の広大さ」に直面します。
いわゆる、ソクラテスの言う無知の知(自分が何を知らないかを知っている状態)です。

知識がゼロの段階では、自分の知識の境界線(円)が非常に小さいため、その外側に広がる「知らないこと」との接触面も極めて小さく見えます。
そのため、「自分は何でも知っている」と勘違いしやすくなります。

しかし、知識を深めていくと、知識の円が大きくなり、比例して未知の領域との接地面も爆発的に広がっていきます。
こうして「未知の広がりと自分の限界」が同時に見えてくることで、知っていると思っていたけど何も知らなかったという認識が強くなっていきます。

「分かっていたはずの対象が段々とよくわからなくなっていく」と感じるこの現象は、実は認識が正常に発達し、より深い知性の入り口に立った証拠でもあります。

また、ある分野において能力が低い・知識が浅い人が「自分は何でも知っているぞ」と過大な自己評価をし、ある程度専門知識や技量がある人が「まだまだだ」と謙虚な自己評価をする傾向や認知バイアスを「ダニング=クルーガー効果」と呼ぶこともあります。

第三者の回答:知るほど知らない領域が増え、また人は局所的にしか思考できないから

参考:物事とは、知れば知るほどわからなくなるものですか?(認知バイアス、ダニング=クルーガー効果、無知の知、哲学)|Quora

調査した疑問に関する第三者の回答要約

「知れば知るほど分からなくなる」という現象は、実際の知識が減っているのではなく、知識の獲得によって「自分が認識している世界(全体の範囲)」が爆発的に広がった結果生じるギャップである。

例えば、10の範囲で9を知っていた時は「90%理解した」と感じるが、学習が進むことで全体の範囲が100や1000存在することに気づき、相対的に自分の理解度が10%や1%へと下がったように感覚される。つまり、事実としては「知っていること(知識量)」は確実に増加しているが、感覚としては「知らない領域の広大さ」に圧倒されている状態といえる。

また、人間は膨大な情報から局所的にフレーム(枠組み)を絞り込んで思考しているため、情報量や視点が増えるほど全体の境界が見えなくなり、深海のような深さに直面する。この「認識の枠組みの拡大」こそが、分からなくなる感覚の正体である。

ダニング=クルーガー効果でもあったように、人は無知な方が自分が知らないことを知れないため、多くのことを知っていると思い込みやすくなります。
しかし、物がわかるようになると無知の知に至り、知らないことの方が多いことを自覚し始めます。

回答をもっと具体的にすると、例えば、子供の頃に好きだったアニメを大人になって久しぶりに見返したとき
「今見てみるとすごくリアルだな」
「このシーンで実は結構描写が丁寧で深かったんだな」
というように全然違う見方になることがあると思います。

それはつまり、子供の頃は全体が10で5ぐらいの情報しか認識できていなかったのが、大人になったら全体が100のうち50ぐらい認識できるようになったということだと思います。
さらに考察もしてみれば、「全体は1000ぐらいの情報量があるんじゃないか?!」という深さに気づくようなものではないでしょうか。

しかも、他人の深い考察を読めば「自分の考察って浅かったかな」と思ったり、どれが一番正しい考察なのか分からなくなって「俺たちは雰囲気でアニメを見ているのか」という事実に直面したりする・・・ということが、知れば知るほど分からなくなるということかもしれません。

東洋思想から見る「知ること」と「空(くう)」の境界

西洋的な認知科学のアプローチでは、こういった混乱すらも「メタ認知を働かせて認知の歪みを修正する」ことで対処しようとします。
しかし、「対象を完全に理解しようとする欲求」そのものに囚われている限り、この空洞化のループから抜け出すことは困難です。

ここで、東洋思想、特に仏教の縁起」や「唯識の視点を導入してみましょう。

仏教においては、すべての事象は「不変の本質(自性)」を持ちません。
つまり独立して存在しているものはないという考え方があります。

あらゆる物事は、無数の関係性や条件(縁)が重なり合って一時的に現れている現象に過ぎないと考えるのです。
(これが仏教における」の思想です)

私たちが最初に感じていた「面白さ」や「新鮮さ」とは、実は対象そのものに備わっていた属性ではなく、私たちの主観(識)が対象との関係性の中で描き出した一時的な「映像」のようなものです。

しかし、私たちはその映像を「対象の固定された、変わらない本質」だと思い込み、それを所有し、完全に理解しようと執着します。

知れば知るほど好奇心を向けた対象がひとつのものに固定できず、多面的に感じたり、あるいは空洞化したりしていくように感じるのは、ある意味当然です。

なぜなら、細部をどこまで解剖していっても、そこには最初から「固定された本質」など存在しないからです。
対象を失っているのではなく、もともと実体のないものに実体を求めていたという真実(空)が、知識の深化によって暴かれているだけだと言えます。

「知ること」と「分かってないと感じること」の境界。
それは、対象を『自分のものとして完全に把握できる固定された何か』として捉えるか、あるいは『無数の関係性の中で変化し続ける、捉えどころのないプロセス』として捉えるかの境界です。

知るという行為は、自分の好奇心を満たすエンターテイメントであると同時に、対象の神秘性を消費して「ただのデータ・事実」に変換していく寂しいプロセスという二面性があるのかもしれませんね。
(そこに良いも悪いもないと思います)

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