どの時代や地域・立場にいる人間にも該当する生まれつきの人間らしさとは?
これまで何度も自分に問いかけてきたテーマだけど、いまだに明確な答えを出せずにいる。
私はサルトルの「根源的自由と責任」という考え方が好きだ。なぜなら彼は要するに、「自分の行動を選んだのは自分なのだから、言い訳はできない」と言っているのだと思うから。
しかし、彼(サルトル)の「置かれた状況(環境)すらも自分の責任である」という考え方には同意できない。もちろん、自分の行動が引き金となって招いてしまった状況については自己責任だと言えるケースもあるけれど、私たちが遭遇する状況の中には、どう考えても本人の責任とは言えないケースもあると思う。
例えば、狂った運転手が誰かをわざと車ではねたとする。はねられた人に落ち度があったとは到底思えない。サルトルなら「その時間にその場所にいることを本人が選択したのだから責任がある」と主張するかもしれない。ある程度は正論かもしれないが、どう見てもその狂った運転手の方に大きな原因があるはずだ。
一方で、ヘーゲルが『精神現象学』の「独立的自己意識と非独立的自己意識(主と奴隷)」の中で展開した議論は、普遍的な人間性の存在をうまく説明していると思う。二つの意識(人間)が、単なる「他者から評価されるだけの客体(モノ)」ではなく、れっきとした「主体(人間)」であることを証明しようとして、互いに衝突し合うというのは、大いにあり得る話だと感じられるからだ。
もう一つ付け加えたいことがある。私は「普遍的な(=全人類共通の)人間性」があるという説よりも、どちらかといえば「主観的な(=個人に依存する)人間性」があるという説の方にしっくりきている。つまり、育った環境が世界の見え方に巨大な影響を与え、それが人生の選択を左右すると思っている。しかし、環境を経験するのは「出生後」のことだ。だとしたら、それを「生まれつきのもの(先天的な人間性)」と呼んでいいのだろうか?
このテーマについて、ぜひ他の人の視点も聞いてみたい。遠慮なく意見を聞かせてほしい。
https://www.reddit.com/r/philosophy/comments/gzvrr/is_there_such_a_thing_as_a_universal_human_nature/?show=original (NotJoeSuthersの投稿 Geminiによる翻訳)
「普遍的な人間性は存在するかどうか?」という疑問です。問いが面白かったので取り上げてみました。
簡単に言い換えると「どの時代や地域・立場にいる人間にも当てはまる人間らしさとは?」という感じになると思います。
補足
サルトルとヘーゲルの本は読んだことはないですが、投稿の内容を補足すると
まず世界や存在に意味はないという前提があります。そのため、根源的に人間は本来自由な存在であるが、それと同時に責任も伴うという概念です。
人は自分の行動や選択は自由に選べるし、どう在りたいかも選べる。ただし、その自由さゆえに伴う結果や責任は全人類に対して負わなければなりません。
また、完全に自由に何でも選択できる状況は人間に強い不安をもたらしますが、それをやめることができず、さらに大きな責任も伴うため、「人は自由の刑に処されている」としました。
「根源的自由と責任」について:
参考
「https://ja.wikipedia.org/wiki/自由の刑」
「「自己責任」という思想 — その哲学的起源と現代の陥穽|Harmonic Society Philosophy」
上記について投稿者は「サルトルの「根源的自由と責任」という考え方は好きだけど、いつでも当てはまるものではないと思う」と述べています。
投稿中でも簡単に説明がありますが、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を指しています。
主人と奴隷の弁証法では、人間が自由と自立した存在であるためには他者からの承認が必要であるとし、それぞれの人が相互承認を得る過程で闘争が起こり、勝敗の結果として主人と奴隷という立場の違いが生まれるという前提があります。
奴隷は主人に縛られた立場での労働を通じて、自然や仕事から得た学びによって自己形成をする機会を得ます。
それに対して主人は奴隷よりも自立した存在ですが、生活を奴隷に依存しています。
また、消費以上の行動をしないため、自己形成の機会を得られずに自立と自由を喪失していきます。
この隠れた立場の逆転が起こるというのが、ヘーゲルが自著の中で展開した主人と奴隷の弁証法(自由と権威の関係についての議論)です。
(自分の立場と反対側にある真実に気づくことが弁証法)
ここでいう労働とは、現状の世界や対象を否定する活動を意味しており、否定の活動を自己に取り込むことで自由が達成されるということらしいです。
『精神現象学』の「独立的自己意識と非独立的自己意識(主と奴隷)」について:
参考
「主人と奴隷の関係」
「主人と奴隷の弁証法|コトバンク」
「ヘーゲル(https://www.ne.jp/asahi/village/good/hegel.htm)」
(熟読してないので合ってるか分からないですが、上記を前提とします)
投稿者はヘーゲルの上記議論を挙げて、「どんなときでも当てはまる人間らしさの存在(普遍的人間性)をうまく説明できていると思う」と述べています。
さらにそこに付け加える形で
- 普遍的な人間らしさについて「(個人に依存する)主観的な人間らしさ」があるという説がしっくりくる
- 環境が個人の主観性に影響を与えて、その後の人生を左右するようになるが、出生後の経験を生まれつきと呼んでいいのか?
という疑問で終わってます。
個人的にはヘーゲルの
- 人間が自由と自立した存在であるために他者からの承認が必要
- それぞれの人が相互承認を得る過程で闘争が起きる
という部分は必ずそうとは限らないかなとも思います。
理性的な思考の訓練を行っていない一般的な人間を前提にしているなら、確かに自分の行動の動機として承認欲求が絡んでいてもおかしくはないかもしれません。
理性的に解決が図れないなら物理的・心理的な闘争が発生し、それが待遇の差として反映されるというふうに考えることはできます。
東洋思想ではどう考えるのか
東洋思想のうち仏教では、すべてが相互に依存し合っていて、独立して存在するものはないとする「縁起(えんぎ)」の考え方があります。

ヘーゲルの考え方では、似たようなことが主人と奴隷の関係で比喩的に説明されています。
(自由と自立した存在であるためという理由付け、相互承認の闘争に関してはヘーゲルの弁証法独自のものですが)
それから、主人と奴隷の弁証法では反対の真実に気づくことで自由を得るとしているのに対して、縁起の考え方では、依存する関係の条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるというふうに説明してます。
(つまり、条件や原因がなくなる=反対に真実に気づく、結果がなくなる=自由を得るのと似たような意味だと思います)
また仏教においては、物事や自我に対する執着が苦しみを生むという考え方があります。
(要するに、他者や対象を思い通りにしたい・手放せないという思考や心の働きが苦のもと)
一緒くたに考えていいのかは分かりませんが、同弁証法において「私」とは労働(対象を否定する活動)そのものにあるという考え方があるため、対象の否定とは執着のことかもしれませんね。
疑問に対する第三者の意見
あらゆる有情(感情や感覚を持つ生き物)には、ある一つの共通点があります。それは、快い感覚を好み、不快な感覚を嫌うということです。他の条件が同じであれば、空腹な者は食べ、疲れた者は眠り、恐怖を感じる者は戦うか逃げるかを選び、性的な欲求を抱く者は性行為を求めます。知覚や意識のレベルが高まるにつれて、こうした目的を達成するための手段は複雑かつ入り組んだものになりますが、合理化や神経症といった層の奥深くに埋もれていたとしても、その根本にある核は変わらず存在し続けているのです。
https://www.reddit.com/r/philosophy/comments/gzvrr/is_there_such_a_thing_as_a_universal_human_nature/?show=original(返信欄:xoctor 15年前 より Google翻訳後)
感情や感覚がある生き物なら良い感覚を好み、不快な感覚を嫌うという共通点があるという意見。
人間は自傷行為をしたりすることがあるけど、それによって心地よい脳内物質が出るそうなので、それは良い感覚を好んでるうちに入るのでしょうかね。
(参考:https://www.comhbo.net/?page_id=5803)
もし「人間性」というものが、脳内のニューロンのランダムな発火や、人によって(わずかに)比率の異なる化学物質が織りなす独自の化学反応の組み合わせから生じると考えるならば、答えは「否」です。私たちは外見上は似通った機械のような存在ですが、その内部の配線は一人ひとり根本的に異なっています。精神疾患を引き起こす化学物質の不均衡について考えてみてください。統合失調症を患う人が、あなたと同じ「人間性」を共有していると言えるでしょうか?「共通の人間性」とは、社会的に構築された概念にすぎません。人間性はスペクトラム(連続体)上に存在し、私たちは皆そのどこかに位置していると言えるかもしれませんが(必ずしもそうとは限りませんが)、「普遍的な人間性」などというものは存在しないのです。
https://www.reddit.com/r/philosophy/comments/gzvrr/is_there_such_a_thing_as_a_universal_human_nature/?show=original(返信欄:[削除されました] 15 年前 より Google翻訳後)
人間性=脳内のニューロン発火や化学物質の反応の組み合わせと定義している前提なら「否」であるという意見。
投稿者が想像している人間性とは少し違う気がしますが、個体差がある人間にも普遍的な部分があるのかという視点で考えれば、私も無いに近いのではないかなと思います。
でも個体間は全く断絶しているわけではなく、主観的なこと(間主観?)や事実を積み重ねた客観的なことを情報共有できます。
「主観的な(=個人に依存する)人間性」があるという説の方にしっくりきている。つまり、育った環境が世界の見え方に巨大な影響を与え、それが人生の選択を左右すると思っている。しかし、環境を経験するのは「出生後」のことだだとしたら、それを「生まれつきのもの(先天的な人間性)」と呼んでいいのだろうか?
また、投稿者は育った環境が人生に影響を与える説にしっくりきていますが、それを先天的なものとして扱うことに疑問を感じてもいました。
個人的には、脳のシステムである予測符号化理論を前提として、個体が育った環境はその個体の人生の選択に大きな影響を与えると思います。
それぞれの個体が環境の中で学習して身につけたものは後天的なものですが、脳の予測システムという先天的なものがあるという意味では、それが普遍的にある人間らしさというふうに考えられるのかなとも思います。
予測符号化理論、ベイズ脳仮説については、以前の記事でまとめてます(ChatGPTとの対話形式です)。

というか、そもそも普遍的な人間性っていう概念そのものが結構難しいように思います。


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