客観的事実を言っただけで煙たがられる。真の客観性とは?
※以下は、よくある疑問を再構成した例です。
周囲の人間たちのあまりの視野の狭さや、感情論・認知バイアスに振り回されている姿を見るのがしんどいです。
私は普段から心理学やメタ認知について勉強しており、自分が何かを判断するときも「今、確証バイアスに陥っていないか?」「自己中心的に物事を捉えていないか?」と常に自分の思考を一歩引いた視点(二重化された自我)から厳しく監視するようにしています。
しかし、SNSや職場を見渡すと、多くの人が「自分が世界の主人公」であるかのように振る舞い、自分の都合の良い情報だけを信じて偏見を撒き散らしています(これはスポットライト効果というバイアスです)。
私は第三者の立場で認知の歪みが分かるため、タイミングを見て客観的なアドバイスを試みるのですが、相手には全く伝わらず、むしろこちらが「冷徹だ」「理屈っぽい」と煙たがられる始末です。
そういった出来事があった結果、絶望的な疑問がふと湧きました。
「他人のバイアスはクッキリ見えるけど、私は自分自身のバイアスを本当に検出できているのだろうか?」と。
「自分はメタ認知度が高いから客観的だ」と思い込んでいること自体が、最大級の自己中心性バイアスなのではないかという恐怖があります。
他人の愚かさを冷静に見つめるほど、自分の盲点が深まり、他者と分かり合えない状況に陥っていくような気がしてなりません。
自分の認知の「検出器」そのものが歪んでいる場合、一体どうやって本当の客観性に辿り着けばいいのでしょうか。
より賢く、より客観的に世界を見つめようと、心理学やメタ認知の知識を深め、日々自らの思考をアップデートし続けようとする心がけは良いことです。
「自分は確証バイアスに陥っていないか」
「主観だけで判断していないか」
と、常に自分の思考を一歩引いた視点から監視することで、自分の視点から出て、他人の立場を想像しやすくなることもあります。
ただし、こうしたストイックな姿勢を持つ人ほど、周囲の人間とのギャップも実感しやすいことでしょう。
自分が客観性を突き詰めるほど、同時に主観的なものが浮き彫りになります。
客観性というのは主観性があるから定義できるものです。
また、主観も客観的に見えるものがあるから区別できます。
お互いの存在がないと、両方とも定義できないものです。
そのため、感情論や偏見に振り回され、「自分が世界の主人公」であるかのように振る舞う他人が目立って見えるのは、自分が客観的立場で在ろうとしているからでもあります。
私は第三者の立場で認知の歪みが分かるため、タイミングを見て客観的なアドバイスを試みるのですが、相手には全く伝わらず、むしろこちらが「冷徹だ」「理屈っぽい」と煙たがられる始末です。
冒頭の悩みで煙たがられて「冷徹だ」「理屈っぽい」と拒絶される悩みが挙げられていますが、口うるさい親と一緒のことをしていると思えば分かりやすいのではないでしょうか。
- 宿題を自分で決めてやる時
- 「やりなさい」と言われてやる時
言われた側の気持ちは一緒でしょうか?
宿題を例にしましたが、人は状況的にそれしか答えがないとしても、誰かにやらされるのではなくて自分が考えて決めたと思いたい生き物です。
客観性を理由に自分が正しいと思うことのみを押し付けるのは、他人の意思決定の境界を侵犯してるのとそう変わらないのではないでしょうか。
(もちろん裁判や重要な話し合いなど客観的な事実が重要な場面もありますが、日常生活で何でも客観性に執着すると煙たい人になりやすいと思います)
客観的な要素で自分の主観を構築したからといって、他人から見ればそういう主観でしかありません。
客観性を理由に他人の主観に指図できる権利があると思うのは、他人から見たら客観性を武器として振りかざす人に映る可能性もあります。
私個人も客観性に執着してたことがあるんですが、こういった客観性が人に伝わらない理由は絵で例えると分かりやすくなると思います。
認知バイアスのない世界が至高であるという考え方って、絵で例えると、現実とそっくりそのままの絵を書ける自分の流派が、この世で最も価値が高い絵であると周りに言って回るようなものではないでしょうか。
(認知バイアスがない客観性が一番重要ということは、アニメ絵、3DCG、水彩画、印象派、油絵など様々な表現は写実の前ではすべて無価値であるってことではないですか?)
AIで例えれば、AIにとって現実はただの無意味な集合ですが、データ学習によって結局意味の偏りを認識するように矯正されて何かに利用されますね。
こういった問いを考えても真の客観性というのはまだ重要だと思いますか?
自分の認知の「検出器」そのものが歪んでいる場合、一体どうやって本当の客観性に辿り着けばいいのでしょうか。
人間は確かに認知バイアスによって判断を誤ることがあるため、注意しないよりはした方が何かのミスを予防できる可能性は高くなります。
しかし、何でもかんでも客観性で見る人というのは少数派です。
客観性を突き詰めるほど自分の周りにいる人は主観性で動く存在になりますし、他人から見たあなたは客観性という名の主観を宿した異物のように見られます。
個人的にも通った道なので、真の客観性を求めること自体は悪いとは思わないですが、客観性の追求自体が逆に盲点となり、周囲との摩擦のように感じるのだと思います。
(あとは追求の結果、客観性が周囲に対する武器になったときに摩擦が生まれます)
最近思うのは個体の主観がどれだけ不合理でも、その個体の脳の予測活動を維持するために必要なものだから、そこを何らかの理屈をごねて崩そうとするのは個体の恒常性にダイレクトアタックを仕掛けるのとそう変わらないんじゃないかなと思います。
そもそも人間には本能がありますし、受け継いだ遺伝子があります。それに生まれた時点で親や環境の影響は受けてるので、認知という現実の検出器自体はみんな何らかの形に歪んでいるのではないでしょうか。
認知バイアスの歪みのない知性があるとしたら無学習のAIかもしれませんね。
西洋的思想のバイアスから出て東洋思想にも尋ねる
西洋的な科学的視点のアプローチは、脳の錯覚やバイアスといったバグを鮮やかに特定します。
しかし、「では、どうやって完全な客観性に至るのか」という問いに対しては、メタ認知で対処するとメタ認知の無限ループになってしまいます。
ここで西洋的の科学思考というバイアスから出て、東洋思想、特に仏教の「唯識(ゆいしき)」という考え方を挙げてみます。
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/唯識)
(概念が難しいのですが簡単に書くと)
唯識の考え方では、私たちが「客観的な現実」と呼んでいる世界は、独立して外側に実在するものではないものとして扱います。
世界はそれぞれの個人が描く「識」しかなく、それぞれの主観のみで世界が構成されているという考え方をします。
また、私たちが見ている世界や感覚は、個の「識」を成り立たせる根源的な領域である「阿頼耶識」から生じるとされており、意識や個の感覚はその意識の深層にある阿頼耶識から描き出した「映像」に過ぎないと捉えます。
つまり、「バイアスにまみれた他者」を冷静に、客観的に見つめていると思っている「私(観察者)」という存在自体が、脳が作り出した最大のフィクションであり、錯覚であるということです。
余談ですが、脳が見ているのは過去15秒の平均したものらしいので、人間にとっての客観とは何なのかよく分からなくなりますね。



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