※以下は、よく見られる相談内容を再構成した例です
常識が通用しない人に対してどう話し合えばよいのでしょうか?
職場のデスクで、隣の席に座る後輩に声をかけたときのことです。
数日前にお願いしていた資料の進捗を確認すると、彼はパソコンの画面から目を離さずに「あ、まだ手をつけてないです。優先順位が変わったので」と短く答えました。
私にとっては、チーム全体の流れを止めてしまう重大な遅れに感じられましたが、彼の中では「自分の判断で調整しただけ」という、ごく自然な振る舞いであるようでした。
「せめて一言、状況を教えてほしかった」と伝えても、「終われば同じですよね」という言葉が返ってくるだけです。
報告や連絡、相談といった、私たちが「仕事の前提」として疑わなかったルールが、彼との間では共有されていないようでした。
このままではいけないと思い、ズレていることを理解してもらおうと言葉を尽くしましたが、逆にこちらの「常識」を無理やり押し付けているような感じになって徒労に終わりました。
こちらが「当然」だと思っていることが、相手の中には存在していない。
どう頑張っても話が噛み合わずに終わります。(最後まで噛み合わなかったです)
「価値観が違う」といえばそうなのかもしれませんが、その一言だけで片付けていいものか違和感が残ります。どうするのが正解だったのでしょうか?
親世代と常識が違うことに困っています。
実家に帰るたび、母親のいつもの一言に「悪いな」と思うところもありますが、心の何処かでは放っておいてくれたらいいのにとも同じぐらいよく思います。
母がテレビを眺めながら、「早く結婚して安心させてほしい」と当たり前のように口にします。
私が今の仕事の面白さや、一人でいる時間の充足感をどれだけ言葉にしても、母の耳には届いていないようでした。
母にとっての幸せの価値観に対して、私が大切にしている自立という価値観が、まったく通用しないのです。
反論を試みても、「親の言うことは聞くものだ」という一言で会話は途絶えてしまいます。
正しい・間違っているという議論以前に、立っている前提そのものが食い違っているんだなということに気づいたときは静かに絶望しました。
結局、何も解決しないまま、実家に帰るたびに結婚しろと言われています。
こういう世代間の常識の違いは乗り越えられないのでしょうか?
こちらにとっては明らかに非常識でも、相手は本気でそう思っていなくて、逆にこちらが困惑してしまう・・・という経験をしたことがあるかもしれません。
常識のズレ、言い換えれば「共通のはずのルールが共有されていない」相手と接しているとき、一体どこですれ違っているのでしょうか?
常識とは「空気」ではなく「前提」
私たちは常識を「みんなが暗黙のうちに知っていて守っているもの」だと思いがちです。
しかし実際には、常識は空気のように空中に存在しているわけではありません。
常識とは、
- 育った環境
- 所属してきた集団
- 成功・失敗の経験
- その人が見てきた世界
こうした積み重ねの中で形成された「判断の基準」です。
常識は暗黙のルールというよりも、毎回ゼロから判断せずに済むよう、脳が作り出した効率化の仕組み・認識のショートカット装置に近いものがあります。
常識は共有している集団の中では安定して通じます。集団とは例えば
- 同じ会社
- 同じ世代
- 同じ地域
- 同じコミュニティ
といったものが挙げられます。
集団・時代・経験といった環境や条件が変わると常識とその共有範囲も変わるため、常識や価値観の衝突が起きやすくなります。
例えば、挨拶をしない同僚は、「挨拶=関係維持に必要」という前提を持っていないかもしれません。
また、SNSに写真を載せる友人は、「公開=リスク」という前提がない・気にしてないのかもしれないということです。
その人の人生経験では、そういう判断が必要なかったのかもしれません。
「話しても通じない」が起きる構造
常識が通用しない具体例として、冒頭の例のような職場での困惑や家庭内の世代ギャップ、SNSで交流したときに起きるコミュニケーションエラーなどがあります。
また「説明すればわかるはず」「注意すれば修正するはず」と考えてしまうのも自然なことです。
ですが、お互いが無意識に考えている前提が違う場合、期待した効果が得られないことがあります
なぜなら、私たちは自分の前提の上でしか言葉を解釈できないからです。
たとえば、「報連相は社会人として常識だよ」と言われたとき
- Aさん:組織内での信頼維持に必要だと理解する
- Bさん:会社や職場に監視される仕組みだと受け取る
というふうに、受け取り方の違いが生まれます。
この場合、AさんがBさんにいくら報連相の重要性を説明しても、伝わる意味は別のものになるでしょう。
また、ここで重要なのは常識が通用しない場合、悪意よりも前提の食い違いが影響していることがあるということです。
こういった常識が通じないトラブルは、「常識の共有範囲」を越えたときに起きる摩擦とも言えます。
「常識が通じない」という体験は、他者や自分の問題というよりも前提が共有されていない状態に直面した瞬間そのものです。
そこでは
- 自分の基準が揺らぐ
- 相手の行動が理解不能に見える
- 感情が先に立つ
というプロセスが起こります。
私たちは、行動そのものを見ているのではなく、自分の前提を通して意味づけた結果を見ています。
「非常識」に見える行動はなぜ個人の中では整合的なのか
人は、自分の経験の中で合理的だと思える行動を選びます。
非常識に見える行動の例としては
- 職場で挨拶をしない同僚。
- 何度注意しても遅刻を繰り返す人。
- SNSで他人の写真を無断投稿する友人。
といったケースが挙げられます。そして注意すると返ってくるのは
- 「それくらい大したことない」
- 「みんなやってる」
- 「気にしすぎじゃない?」
といった言葉かもしれません。
非常識に思えたとしても、ここで重要なのはその人の内部では一応、常識や振る舞いの整合性が取れているということです。
例えば
- 遅刻を繰り返すのは・・・
- 時間厳守よりも柔軟性を優先してきた環境かもしれない
- 電車で大声で話すのは・・・
- 公共空間の境界感覚が違うだけかもしれない
- 世代間で価値観が衝突するのは・・・
- 成長期に身につけた「正しさ」の基準が異なるからかもしれない
- SNSに他人の写真を無加工でアップロードするのは
- ただの写真に影響力なんかない、誰も興味ないと思っているからかもしれない
という背景が考えられます。
私たちが「理解不能」と感じるのは、自分から見て不自然でも相手の主観上は整合しているという前提を理解する瞬間がないからです。
非常識な相手に出会ったときにどう考えればいいのか
相手が「常識が通じない人」と感じたとき、つい感情的になってしまうこともあるでしょう。
ですが、相手を変える前に自分の前提を一度観察してみるという選択もあります。
自分をメタ的に観察してみたとき、「なぜあの人は非常識なのか」と考えることもできますし、「なぜ私はそれを常識だと感じているのか」と考えることもできます。
そこで見えてくるのは、その常識は
- どんな環境で形成された基準なのか
- どの範囲で共有されているのか
- どこから先は通じない可能性があるのか
という構造です。
常識が通じない瞬間は、不快です。
しかし同時に、自分の前提が可視化される瞬間でもあります。
そのとき、相手を排除することもできますし、前提の違いを観察することもできます。
どちらを選ぶかで、人間関係の見え方が変わることもあります。
「常識」とは何か。「前提」はどのように作られるのか。
なぜ私たちはそれを当然だと思い込むのか。
こうした認識の仕組みについては、別の記事でさらに整理しています。
常識が通じないと感じたとき、私たちは何を前提にして世界を見ているのか。
その構造を少しだけ観察してみると、見え方が変わる瞬間があるかもしれません。

