偶然には意味があると思いたがる脳とバイアスという知的葛藤
※以下は、よくある疑問を再構成した例です。
最近、自分の人生に起きる出来事の「意味」について考えすぎて苦しくなっています。
もともと運やスピリチュアルなものは信じないタイプで、物事はすべて確率と統計、あるいはただの偶然で片付くと思って生きてきました。
だからこそ、神社に熱心に合格祈願に行って本当に合格した人の話を聞いても「ただの認知バイアスだ」「外れた人のデータが無視されているだけだ」と分析していました。
しかし、いざ自分の身に「長年探していた絶版本を古本屋で見つけた直後に、その著者とSNSで繋がる」といった奇妙な偶然が重なると、どうしても「これは何かの運命ではないか」「世界が私にメッセージを送っているのではないか」という強烈な感覚を拭えなくなります。
客観的に見ればただの確率的なもの、それが偏っただけだ思います。
でも、自分の脳が勝手にそれを「特別な意味がある」と解釈してしまいます。
その偶然の一致を後から理由付けしてしまうのを確証バイアスと言うようですが、それを始めてしまうのを止められません。
冷静に「意味なんてない、ただの確率だ」と否定しようと思いますが、やっぱりそうは思えないです。
脳の仕組みというのはやっぱり抗えないものでしょうか。脳のこの過剰な反応を抑え、偶然の一致を見ても確率として淡々と受け入れる方法はありませんか。
長年探していた絶版本を偶然立ち寄った古本屋で見つけ、その興奮も冷めやらぬうちに、SNSでその著者のアカウントがタイムラインに流れてくる。
このような奇妙な一致に直面したとき、私たちは言いようのない高揚感とともに、「これは単なる偶然ではない、何か特別な意味があるのではないか」という強烈な感覚に捉われます。
最近だとアルゴリズムの精度が高いので、SNSのおすすめや広告であればユーザーの行動データから先読みして表示されているパターンもあります。(この場合、計算された偶然ですね)
しかし
- 晩ごはんにカレーが食べたいと思ってたら、その日の出てきた夕飯がカレーだった
- ふと昔の親友のことを思い出して連絡を取った後日、訃報などの重要な知らせを受けた
- ついさっき本や雑誌で見てた内容がテレビで放送されていた
- 電話をかけようと思ったら相手から偶然かかってきた
- 神社で願掛けをしたあと、現実で願いが叶った
といった、できすぎた偶然というものもあります。
こういったできすぎた偶然に遭遇したとき、どう受け止めるかは人それぞれですが、こう考えることもできます。
「偶然の一致に見えるものは単なる確率の偏りであり、錯覚に過ぎない」
「世界に隠された意図など存在しないし、バイアスや錯覚で説明できるはずだ」
他人の合格祈願やジンクスを「認知バイアスだ」と冷徹に分析できる人ほど、自身の身に起きた偶然に対しても、同じように科学的・統計的なフィルターをかけようと試みます。
西洋的な科学の考え方でも、偶然の一致や無関連の集合に意味を見出す現象は、認知バイアスやパレイドリア、シミュラクラ現象のように脳のエラーや錯覚、心理的効果として定義されていることが多いです。
つまり脳の仕組みによって、人は判断ミス・偏った見方・存在しない何かを視認する確率が高いことが科学的に示されているということでもあります。
自分が客観的に正しく判断できると思っていても、認知バイアスや心理的効果の歪みの存在を知らなければ、判断は偏っている可能性が非常に高いのです。
そのため、判断ミスを減らすためには歪みを自分で意識して考えることが重要です。
さらに冒頭の悩みには「偶然の一致を見ても確率として淡々と受け入れる方法はありませんか。」という問いがあります。
偶然の一致をただの客観的な事実として冷静に捉えるにはどうしたらいいのか、ということだと思います。
こういった記事を好んで読む人は思考するのが苦ではないと思いますが、基本的に人は考えることに労力を割くのを避ける生き物です。
脳の構造自体がそもそも何かを偏って見たり、意味のないものに意味を付けるようにできているため、常に自分の認知的な歪みに注意を払う努力が必要という意味で、やってのけるのは簡単ではないでしょう。
さらにもうひとつ重要な問いを挙げるとしたら、仮に何でも客観的に考える方が良いとした場合、その時の自分が見る現実というのはどのような世界なのでしょうか?
「偶然の一致に意味などなく、ただの確率だ」と頭で否定したとき、世界とはただの無味乾燥な記号の集まりでしかないのでしょうか?
西洋的思想のバイアスから出て東洋思想にも尋ねる
西洋的なアプローチでは、何事も科学的に検証して客観的な事実に回帰することを求めます。
本記事では、偶然の一致を客観的に捉えるにはどうすればいいのかという悩みを取り上げましたが、その世界観を徹底した先にあるのは「意味を完全に排除した確率の空間」です。
どちらかといえば、それはAIが触れている世界に近いのではないでしょうか。
人間的な意味のこだわりを捨て、確率だけで見る現実というのは温かみがなく寒々しいかもしれません。
このように西洋の考え方では客観的な事実や論理性を重視しますが、東洋思想の仏教的な見方では全体性を重視します。
仏教における縁起の考え方では、世界を「客観的な事実」と「主観的な意味」に分断しません。
すべての事象は独立して存在するのではなく、無数の関係性(縁)の中で相互に依存し合って現れていると考えます。
つまり、「古本屋での発見」も「SNSでの遭遇」も、世界という巨大なネットワークの中で、たまたまその瞬間に現象が交差し、人の認識によって縁という糸が結ばれたに過ぎないということです。

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